時空の彼方から ―古の家刀自編― 一ノ章

序章1

 敏達びたつ九年(西暦五八〇)春。大和国飛鳥。
 此処は訳語田おさだ大王が異母弟橘豊日大兄たちばなのとよひのおおえ皇子が池辺雙槻なめつき宮。
 その庭の片隅に、今日も二人は寄り添うように座っている。
「なにを見ている」
 遠い彼方を何一つ感情をよぎらせず、だがたゆたうように穏やかな顔つきで見つめるは一人の青年。その背中に寄りかかるようにして空を見ていた皇子が一つ声をかけたが。
「……なにも」
 青年は振り返りもせず、ほとんど感情の抑揚が見受けられない声音を落とした。
「帰りたいのか」
 青年の髪は今では長く伸び放題となっている。烏帽子を被るなりみづらに結えば良いものを、それを頑なに拒んで腰まで垂らしている髪を、そっと一房、皇子はその手に掴む。
「……帰りたくはありません」
 不毛な会話だ。もう何度繰り返したか知れない。
 分かっていようとこう何度も尋ねてしまうのは、おそらくこの身を巣くう不安の現われともいえようか。
「皇子も時雨を返したくはなく思っている」
 どれほどこの身に「聖王」としての力を宿そうとも、今この手の中にあるこの存在を遠き未来という世界に帰したくはない。
 背中よりそっと首もとに両腕をまわし、しがみつくかのように身を寄せる皇子に、青年は何一つ動作を起こすことなく、ただ空を見ている。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-1

 兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川
 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと

 皇子の知らぬ……それは未来の歌だろうか。何一つ感情も込めず口ずさむこの青年を、皇子は不憫とも思い同情も禁じえないが、そのすべての思いを通り越して離したくはない、と思う。
 わずか一年ほど前、夏の訪れを告げる藤の花が咲いたその日。
 中庭に一人、雨に濡れつつ座っていた見たこともない衣に身を包んだ青年をこの目に映したその時より、この皇子の心によぎったのは儚く消え入りそうなこの存在への生まれて初めて宿した執着だった。

  *

 生まれ落ちたときから、死んでいる。
 今、この自分が確たるものと信じられるのは、この肉体と、この思考と、そして時雨しぐれという名だけと言っても間違いはない。
 今日も付き人たる名も知らぬ女中が食事を置き食器を下げに来るのみのこの座敷牢の中で、一日という長いのか短いのか知れぬときが、自分を取り残すかのように過ぎていくのを、夕日を見つめながら時雨は感じている。
 十八年という生まれ落ちてからの月日の中で、この一日一日に時の変化が生じたのはどれほどあっただろうか。
 時雨は一日で僅かしか開かない口を開け、小鳥の囀りのような声を響かせ始めた。
 毎日の日課でもあり一日の締めくくりでもあるこの夕空を見つめつつ歌うは、唱歌「ふるさと」

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-2

 兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川
 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
 この歌ともう一曲「朧月夜」という歌が、時雨が一番好む歌と言えた。
「時雨叔父」
 回廊に座し、烏の鳴き声を聞きながらの囀りであったが、今日は途中で邪魔が入ったようである。
 顔を上げれば、庭の奥に一人の少年の姿が見えた。
 どうやら本日は「通常」の一日とは違う時を送るようだ、と時雨は思った。
「お婆サマが時雨叔父に祭祀の場に来て欲しいって。今日は三十六年に一度の聖王祭だから」
 そういえば朝ごろより母屋からは賑やかな声が聞こえてきていた。
 聖王祭。上宮家の祖先「聖王」を奉る祭りで、すでに千年以上もの間続けられている村ぐるみの祭事である。
「……私が末座を穢しても構わないのかな」
「今日だけは一族すべてがそろわないとならないって言っていたよ」
 この自分も上宮家の人間に言わせれば、一応は「一族」なのだろうか。
 この座敷牢にも等しい離れに幽閉し、外に決して出ないように庭には竹の矢来がつくられている。そのようなものがあろうとなかろうとも、時雨は外に出るつもりなどない。自分はそう籠の中の鳥。この場にあるから生きていられるが、外に出ればそうとは限らない。
 外の世界を目にしたことは、時雨にはない。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-3

 忌み子として生まれた時雨には「幽閉」は当然の処置であり、生かされているだけでも有り難いと思わねばならない身ともいえた。だが、人として行動の自由を奪われ、日々何度読み返したか知れぬ書物を読み返すしかないこの日々を、果たして生きているといえるのだろうか。
 生きながら、死んでいる。
 それを不満に思ったこともなければ、こうして時を過ごしていくことに疑問を抱いたこともない。時雨は物心つく前から、全ては「宿命」という言葉で片付ける癖を持っていた。
「時雨叔父」
 兄時任ときとうの長男である真人まひとは、今、七歳の年を数えている。
「……なんでしょうか、真人殿」
 ちょこんと時雨の傍らに座った真人は、足をバタバタとさせながら、ジッと時雨を見る。
 数いる甥や姪の中で、自分に近づくのはこの真人くらいだ。それを不思議に思うこともあったが、時雨は聞いたことはない。
「どうして叔父上は忌まわしいの」
 少しばかり聞きにくそうな顔をして真人は尋ねる。その子供の純朴なまでの率直な言葉に傷つく精神は時雨は持ち合わせてはいない。もとより喜怒哀楽をほとんど宿すことなく、この十八年、ただ息を吸ってきただけの魂の入った人形の自分である。
「それはね……私が忌み子だからですよ」
 真人は何を思ったのか、時雨の片腕にギュッとしがみついてくる。驚いた時雨はその手を慌てて離させ、頭を小さく左右に振って見せた。
(この忌まわしき私に触れたならば、穢れが真人殿にも移ってしまう)

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-4

 わずかに真人は傷ついた顔をしたのだが、それを知ってなお時雨の胸には何もよぎらない。
「忌み子って、婆さまがこの上宮に不吉をもたらせる凶の子って教えてくれたけど、……どうして叔父上は忌み子なの? 僕から見れば時雨叔父ほどたおやかで綺麗で人間離れした……人はいない。その場にいるだけで叔父上にはきれいなきれいな空気がまとっているように見える」
「真人殿」
 今は幼いが、いずれは上宮家の当主となるだろう真人は、ジッと時雨の顔を見つめてくる。
「この叔父は生まれてくるのを間違えたのですよ」
「まちがえる?」
「そう。女子として生まれ落ちねばならなかったのです。一心に祝福を受け稀代の聖なる巫女と予言を受けた子が、生まれてみれば男の子。もって生まれた力も男が宿せば忌まわしき力。……私の存在はあってはならないものなのですよ」
「そんなの叔父上のせいじゃないじゃないか」
「……この上宮家では通じない道理ですね」
「叔父上……さびしくないのかよ。悲しくないのかよ。こんな場所に十八年も閉じ込められ、外にも出れずに、一族とも関れないで。自由がない。一族を父母を憎まないでいられるのかよ」
「それがこの叔父の宿命でありましょう」
 すべてを宿命と片付けることによって、時雨の心の中は絶えず涼風が吹く。
(……私には……すべてどうとなろうともよいのです)
 父母も一族も「血」というものが繋がっている遠い存在でしかなく、感情をよぎらせる存在にはなりえない。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-5

 一族の中で、この自分に最も近くにあるのは、おそらくこの幼き甥だけであろう。
「それに真人殿。私は生かされていることだけでも有り難いと思っております」
 どこまでも生きながら死んでいる自分には、ここが檻であり棺おけなだけのことである。それは生れ落ちたときに決した宿命。
 夕闇が地上を闇を包み込む。「聖王祭」は月光の下にてとり行われる祭事であると記憶している。
 烏の鳴き声も聞こえなくなった。これからは闇が支配する静寂の世界である。
「時雨叔父……昨日、隣村に爆弾が落ちた」
「そうですか」
 一日中、ほとんどを縁に座って空を見つめながら過ごす時雨である。昨日に「轟音」が轟いたことは記録していたが、それは今の時雨にはさして関係のないことだった。
 爆撃は此処ではなく、隣村に落ちたに過ぎないのだから。
「これからは避難警報も鳴ることがあるかもしれない。その時は叔父上も……」
「私は此処にいますよ」
 防空壕に入ることはありません。
 上宮の防空壕もさして大きくはなく、ましてや忌み子の自分と同じ空気を吸わねばならないことに一族の者が耐えられるとは思えなかった。
 一度だけ……物心つく前に、毎年行われる祭事に祖母の言いつけにより出席したことがある。時雨が傍らにいるだけで、叔母という人は叫び声をあげ逃げたのだ。時雨は悲しいとも苦しいとも感じた記憶はない。ただ覚えているだけである。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-6

「爆撃が近くに落ちたんだよ、此処だっていつどうなるか分からない。東京は火の海だって聞いた」
 ちょうど一月ほど前になるだろうか。昭和二十年三月十日。
 日付が変わるとともに、B二十九による東京上空よりの大空襲がはじまった。この国は今、空の脅威に怯えきっている。
 非常時態勢をとるようになり幾月が過ぎただろうか。
「私は生きながら死んでいるもの。私を記す戸籍もない。それに此処から出たことがない私が、どうしたら生きていけましょう。爆撃にあたるならばそれも宿命というものでしょう」
 この国は今未曾有の「戦争」の只中にある。
 もしもこの小さな……長閑さしかない村にも爆撃があるならば……それがたんなる偶発的なことであろうと、必然的なことであろうと、この国の行く末は見えたような気がする。
 時雨はどうして爆撃は自分の上に落ちなかったのか、と遠い心で思った。
 上宮村にもやはり「戦争」の音は如実に聞こえてくる。
 従兄弟の誰かに赤紙が届いたという話を、真人から聞いた。
 叔父の誰かが……戦地に赴き戦死したという話も聞いた。
 武人の名誉は一に戦死、二に負傷、三に生還と合言葉のように悲鳴のように唱えられるが、それすらも時雨には遠い。
 生きたいと思っている人間が倒れ、どうしてこの生に執着もなく喜びもなく苦しさもない自分が。生かされていることに喜びを抱かねばならない立場だというのに、まったく喜悦を抱くこともできない自分が、どうして此処に生きているのだろうか。
「祭事に参りましょうか、真人殿」
 月の灯火がわずかに地上を照らし始めている。
 今日はおぼろ月やもしれない。

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-7

「……時雨叔父は本当に仕方がない。大丈夫だよ。いざとなれば僕が背負ってでも防空壕に連れて行くから安心しなよ」
 真人は今度はギュッと時雨の手を握った。
 すぐに引き離そうとしたが、今度は真人の真摯な目が時雨の動きを止める。
 こうして手を繋いで歩いている場所を見られれば、一族からどれだけ叱られるか知れないというのに。
 時雨は吐息を小さく漏らしたが、もう真人の手を離そうとはしなかった。

 たゆたうように生き、なにも望まず、何も願わず、心は静謐さだけを求める時雨にも、
 ただ一つの祈りがある。
 ……いつになったら終わりが訪れますか。
 毎日、一度だけ繰り返す。それは、ただ一つの天地への祈りの言葉。
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時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 01-8

時空の彼方から 古の家刀自編一ノ章 序章1

  • 【初出】 2007年3月25日
  • 【修正版1】 2011年11月26日(月)
  • 【備考】 外伝扱いでしたが本編とし「時雨編」としました。
  • 登場人物紹介